町会の生い立ち      homeへ

江戸時代の神奈川宿は、神奈川町と青木町の2つに構成されていた。

明治初期には、武蔵野国橘樹郡大字神奈川町と大字青木町となった。

大字神奈川町は25字のついた地域に分かれていた。この中に、「稲荷町」の名が入っている。

 江戸時代の元禄8年(1695年)8月に行われた検地水帳には、厳然として、「稲荷町」に関する記録が現存している。

 

「稲荷大明神宮」20×5

         2畝10(100)

 別当 真言宗 能満寺

 「稲荷町」 田 筆数 16

      反別 3町1反812(9952)

 

 笠のぎ稲荷神社の境内地のほかは、畑地、屋敷地がなく、全くの水田であったことになる。

 

範囲

 JR各線の敷地を越えて、第二京浜国道(国道1号線)沿いの済生会病院近くのバス停「立町」付近より、白幡跨線人道橋近くのバス停「浦島小学校」付近までの鉄道線敷地が含まれていた。 

 

昭和7(1932)11より昭和51(1976)まで、稲荷町と呼称していた。

                                 「神奈川区誌より」

 

参照

 

慶長6年)、武蔵国橘樹郡に神奈川宿が置かれる。1601

1889年(明治22年)41日、市制施行により横浜市が誕生。町村制により、青木町・神奈川町・芝生村が合併し、神奈川町となる。

1901(明治34年)41日、神奈川町が横浜市に合併される。

1927(昭和2年)101、区制施行により神奈川区となる。

1929(昭和4年)、上無川が埋立てられる。

1942(昭和17年)、米陸軍B29による神奈川区初空襲。

1945(昭和20年)529横浜大空襲。空襲により神奈川県護國神社、東神奈川駅焼失。

 

                                      ウイキペディアより

 

町会形成のあゆみ

 

明治23年(1890) 伝染病の危険危険にさらされる機会が多かった。そのために「衛星組合」が組織される。 

明治30年(1897) 伝染病予防法公布  

大正12年(1923) 関東大震災の混乱の中、自警団が生まれる。世の中が平穏に戻り、自警団は解散、衛星組合に代わり「青年会」、「町内会」が任意団体として生まれる。

昭和15年(1940) 「部落町内会整備要項」を訓令 上意下達のための衛星組合町内会・隣組の組織を作らせる。

            当時横浜市には、自治活動を行うための町内会、衛星組合の町内事務代行、町総代会の3つの組織があったが、「町内会」1本に統一される。

昭和22年(1947) 町内会解体、市民の自主的な行政への参加を進めるため、「弘報委員会」が生まれる。

            解体された町内会・・・敗戦、連合軍の占領の中で起こった問題解決のため、「防火防犯協会」、「赤十字奉仕団」と名前を変えて活動を継続。

昭和26年(1951) 講和条約締結後、自治会町内会組織の再結成の機運が高まる。

昭和31年(1956) 市は市民組織としての「町内会」組織の育成する方針を出す。「広報よこはま」の発行。

昭和35年(1960) 機能を連合自治会へ移行。

 

横浜市自治会町内会の歴史より

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